現存する王朝文化の美 修学院離宮   (京都府京都市左京区修学院藪添)    地図案内     戻る
 
  1615年幕府は禁中並公家諸法度を制定して、朝廷が紫衣や上人号を授ける事を禁止した。紫衣などを授ける事は朝廷の収入源でもあった。天皇は学問や芸術の世界で、という強圧的な幕府の施政に異議を唱えた水尾天皇は第2皇女・明正天皇(第109代天皇)に譲位して自らは上皇となって院政をひいた。
 水尾天皇の妻は第2代将軍徳川秀忠の娘・和子(かずこ、まさこ)で、東福門院と称された。東福門院の母は織田信長の妹・お市の娘・お江与(おごう)なので、東福門院は信長の姪の子(又姪、大姪)である。東福門院と幕府との太い繋がりから巨額の資金援助を受けた。修学院離宮は後水尾上皇(ごみずのおじょうこう、1596~1680)によって1655年頃から起工され、僅か4年後の1659年頃に完成した山荘である。
 泳ぐ龍の姿に見立てたとされる浴龍池(よくりゅうち)。桜が咲く浜辺は西浜。後水尾上皇は写真中央の中島を巡る舟遊びを好み、管弦や詩歌の会を楽しまれたという。
 
 
浴龍池  向こう岸が西浜    
     
修学院離宮  上から上離宮、中離宮(右)、下離宮 創建当時のまま現存する窮𨗉亭(きゅうすいてい)   (上離宮) 5枚のケヤキ板を互い違いに配して霞がたなびく様子に見える「霞棚」  (中離宮)