失われた江戸時代の風景福井城旧景     越前・若狭紀行
    地図案内     福井城は徳川家康二男・松平秀康(結城秀康、1574~1607)68万石の居城。1575年柴田勝家が築城した北ノ庄城(きたのしょうじょう)付近に、関ヶ原の戦い(1600年)の翌年1601年から6年をかけて造ったものであり広大な規模を誇った名城である。本丸と二の丸の縄張りは家康が行ったとされ(異説もある)、他国の大名の手伝普請があった。現在のJR福井駅前まで百間濠が広がり福井駅から北上する今の北陸線はかつての堀の上を通っていることが分かる。1.6km四方に5重の堀で囲まれた本丸に4重5階の天守閣が偉容を誇ったが1669年に焼失し、もう再建されることはなかった。2017年の続日本100名城
 かつての福井城(北之庄城)の勇姿は福井市立歴史博物館所蔵の資料より伺う事が出来る。 
    
   参考資料 福井県史 
 
                                                                                                                                                        
大きな地図はこちらへ     ※ 「福井城下図」以外は福井市立歴史博物館蔵   無断転載禁止 
  「福井市街眺望ノ図」 (寛政の頃-200年余前-の愛宕山(足羽山)からの眺望 ) 。左向こうがほぼ北。
足羽川のお城側は堅固な石垣であるが、南側は桃畑。桃園(ももぞの)の地名が今も残る。北国街道が木田で曲がり、足羽山山麓から毛矢を通り九十九橋を渡ってお城に向かっている。今のJR福井駅前の少し蛇行している道路付近には以前から川が流れていたのでそれを百間堀にした。
 JR福井駅前のモニュメント「福井城下図(松原信之)」  JR福井駅前まで福井城の広大な堀が広がっていた。 
  
「百間濠及福井城東面」   
  
 「舟橋雪景ノ図」 舟を並べて橋を作った。 
 
 「鐵御門前」
  
   「九十九橋」 江戸に向かう大名行列が出立して行く場面を描いている。右側(北)はお城側の照手門(てるてもん)、立派な石垣がある。左側(南)は小石原門(こいしはらもん)で石垣はなく桃畑が向こうまで広がっている。正面が西。九十九橋(つくもばし)は実際には99間(1間は1.8m)より短く88間、横幅3間であった。南側の石橋は41間、北側(お城側)の木造の板橋は47間の半石半木の奇橋。戦いの時には北側を壊す想定をしていた。
  
 「神明社前道」